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特定非営利活動法人自閉症eサービス

eコラム

「自立課題」と「教材グルグル」の大きな違い
 
「教材グルグル」という言い方をご存知でしょうか。ある地域のある施設や学校だけで通用する特殊な用語かもしれませんが、要するに、「自閉症の人向けの教材や作業課題を、作っては崩し、作っては崩しして、何度も使いまわして本人にやらせること」を指します。

例えば、施設の日中場面で、ある自閉症の利用者がボールペンの組立て作業をしているとしましょう。しかし、それは実際の工賃仕事でも何でもない。現場スタッフは、その利用者が作ったボールペンを回収しては作業場の陰で分解しておき、彼が手持ち無沙汰になったり一定の時間がきたら、またその分解したボールペンの材料を彼に渡して、再度「ボールペンの組立てをしてください」と指示する、というサイクルになる。材料がグルグルと利用者とスタッフの間を回るサマから、「教材グルグル」と言われる訳です。

ただ教材がグルグル回っているだけで、何の意味があるのか?いや、それでも意味があるのだと、現場スタッフは言うかもしれません。それはこんな感じです。( )は私の疑問。

  • 適度に日中の時間を過ごすために(→ただの時間つぶしじゃないか?)
  • 本人が好きだから(→ほかの活動や課題は実際に試してみたのか?)
  • 職業スキルや態度を教える(→なら、何年も同じ教材を続けている理由は?)
  • いずれ実際の仕事に結びつける(→その具体的なプランは?)

確かに、教材を使って一定時間課題に取り組むことで、上記のスタッフの言い分のような効果も期待できるでしょう。しかし、同じ利用者に対して何年も同じ教材をグルグル使いまわしているだけなら、それこそ日中のプログラムは何もなく居室でゴロゴロ過ごさせている状況と五十歩百歩じゃないかと私は思います。つまり、ボールペンを崩して渡しておけば、自閉症の人は黙ってまた取り組んでくれるからそれでいいじゃないか、という安直な姿勢にスタッフは陥っていないでしょうか?
まかりまちがっても、それは、TEACCHの言う「自立課題」とは全く違う質のものです。「自立課題」の説明はまたの機会に譲りますが、そのねらいの1つを紹介するだけでも十分でしょう。それは、

「自立課題」に取り組むことで、達成感と自信、自尊心を培う

そういうことは教材を作っては崩す、ただそれだけの日々からは微塵も見えてきません。現場スタッフもまた、同じ境遇の輪の中にいるとしたら、二重に憂うべき状況だと思うのです。

入所施設とグループホーム
 
障害者自立支援法が施行され、いよいよ「施設から地域へ」という流れが本格化すことになります(と思っているけど?)。そこで槍玉に挙げられるのはもっぱら入所施設のほうで、簡単に言えば、施設=ダメ、地域=良いという図式です。じゃあ、ここで言う地域とは何を指しているのか。そこで、期待されている社会資源の1つが、グループホーム(自立支援法では、ケアホームというのも出てきました)です。

つまり、「施設から地域へ」という標語の具体的な中身は、「施設を出てグループホームで暮らす」ということのようです。が、私がこの図式に疑問を持っています。

「施設から地域へ」とは本来、何を意味しているのでしょうか。
私は、障害者は施設入所させればいい(地域から隔離する)という施策や思想に対する反省と、それに替わる「障害者が地域で普通に暮らす社会を」というノーマライゼーションの実現を指しているものと思っています。決して、入所施設そのものがダメなのではありません。入所施設もまた地域の社会資源の1つとして、もっとノーマライズしていけばいいと思うのです。

裏返せば、グループホームなら、普通の地域生活を実現できるか?という疑問もあります。そんなに簡単なことなら、グループホームで暮らす重度知的障害の自閉症の人たちがもっと増えていってもよさそうですが、事態はいっこうに良くなりません。私の見聞きする範囲でも、グループホームや自活訓練事業ではうまく暮らせず、施設に逆戻りしたり、不適応行動が悪化した例もいくつかあります。

グループホームであっても施設であっても、自閉症の人の生活の質を左右するのは、単にその器の問題ではないのではないでしょうか。むしろ、スタッフの支援技術や生活環境の快適さや周到な計画と準備や予算的な裏づけや、何よりも「自閉症の人が普通に暮らすこと」を大事に日々実践されているかどうかにかかっていると私は思っています。

いつもの時間が来たからと、スタッフが機械的に絵カードを見せて「ごはん」だ「お風呂」だと自閉症の人を連れていけば、それが普通の暮らしだと言うのでしょうか。「○○さんは、明日からグループホームで暮らすことになります」と紙に書けば、本人がそれで納得するとでも思っているのでしょうか。
普通の暮らしと言いながらそんなに薄っぺらな中身であるなら、施設もグループホームもどちらも失格です。

私なりに標語を書き改めれば、「施設もグループホームも、他のやり方でも可能性はある」「みんなで連携して、自閉症の人が地域で普通に暮らせる社会を実現しよう」です。

注意書き
 
先日、利用者がいない時間に、とある施設の作業場を見せていただく機会がありました。何人かの自閉症の人がここで作業をしているそうです。現場スタッフはそれなりに自閉症の人たちには個別化と視覚支援が有効だと認識しているようで、個々に作業エリアを設け、スケジュールを用意したり作業の手続き(=ワークシステム)を整理して本人に提供しているとのことです。

ところで気になったのは、作業場のいたるところに「注意書き」が貼ってあるのですね。こんな具合です(多少脚色してありますが、ニュアンスは同じです)。

作業中は静かにする! 口をとじる!
仕事ができたら、「できました」と言う!
(ここから先は)入らない!

といったことが、本人の机の上やドアの前や壁とかにベタベタ貼ってあるのです。

一般に「注意書き」は、文字や絵でわかりやすくして、自閉症の人に注意を促すために用いられます。口頭で注意をされてもそれは抽象的だし消えてなくなるので、覚えていられないことがよくあるでしょう。しかし、視覚的な「注意書き」が掲示されていれば、いつもそこを見れば確認できますからずっと効果的だし、セルフチェックの機会にもなります。スタッフも、その「注意書き」に沿って注意すれば、ずっと根拠のある妥当な対応ができます。つまり、スタッフの恣意的で理不尽な介入や叱責を避ける意味でも、「注意書き」は有効です。

が、だからと言って、「注意書き」を作業場中にベタベタ貼り出すスタッフの感性というのはどんなもんでしょう? 多分、こんな感じなのでしょうか。

①自閉症の人がうるさくてしょうがない、スタッフの注意を守らなくて困っている。
 ちゃんとスタッフの言うことを聞いてほしい。
②「注意書き」は視覚支援だから、なるべく多くあるほうが本人にもいいんだ。
 ないよりあるほうがましだ。

私は、見学させていただきながら、こんな感想を持ちました。

①ああ、自閉症の人は落ち着いて過ごせない作業場で過ごしているのかも・・・。
②ああ、スタッフはそれを見直すことよりも、「注意書き」をあちこちに貼りだしてやり過ごそうとしているのかも・・・。

 「注意書き」を必要最低限のもので済ませておくのが、自閉症の人にもスタッフにとっても健全な職場だと思うのですが、皆さんはどうお考えでしょうか。
自己選択・自己決定
 
「自己選択」や「自己決定」ということで、利用者に決めてもらう、利用者の言い分を最大限受け入れよう。そういう考え方で、現場の支援が進められていることがあります。利用者の意思や人権や生活を尊重することは、現場支援の大前提であり、異論はありません。
しかし実際場面では、どういう状況になっているでしょう。

例えば、施設のレクリエーション。どこに行きたいですか?何をしたいですか?と、利用者に尋ねて、用意された5つぐらいのメニューから選んでもらうと。それは、「レストランで食事」「ドライブ」「ビデオ鑑賞」「カラオケ」「プール」だとしましょう。さて、ここでいくつかの疑問です。

その1:この5つは誰が選んだのか?
その2:この5つ以外の活動を利用者が希望したらどうするのか?
その3:メンバーや具体的な内容や行き場所や時間帯はどうやって計画をたてるのか?

おそらく、実情はこうでしょう。

その1:選択肢は施設のほうで選びました。
その2:他の選択肢はありません。何も選ばないと「参加せず」になります。
その3:施設職員のほうで細かな計画は立てます。

つまり、利用者の「自己選択」や「自己決定」と言っても、施設の中では「ある程度、可能な範囲で・・・」という条件がついているのです。考えても見てください。施設での、居室場所、作業活動や日課、班分け、担当職員、年間行事、給食、外出や通信の自由・・・これらもろもろの選択や決定のほとんどは施設(職員)側が主導している現実を。

ある地域の話です。家で不適切な行動があるからと、いくつかのショートステイを転々とされている自閉症の青年がいました。彼は、もはや、「ショートステイに行きたくない!」と明言し、それでも無理やり施設に連れて行かれると、1日、2日で逃げ出すことを繰り返しています。彼は明らかにショートステイは嫌だと“自己主張している”のに・・・。

この本人不在のメカニズムに目をつぶって、「自己選択」「自己決定」を施設(職員)が無自覚にアピールすることは、二重の意味で失礼な話です。1つは本質的な問題(=本人不在のメカニズム)に自ら加担していること、もう1つはそれを隠して、利用者に寄り添うような素振りを見せること、です。

施設職員は「その利用者さんが選んだ(選べた)」と喜ぶだけでなく、豊かな暮らしとはどういうものかを本気で追求してほしいと思います。「この給食まずい、食べたくない!」と本人が自己決定して断食に入ったら、あなたはどうしますか?

個別プログラムと毎日の暮らし
 
先日、ある若手の施設職員と話をしていたら、こういう嘆きを聞きました。

「車の好きな利用者をさそって昼休みに施設の車を洗っていたら、上司から注意されたんです。それは『個別プログラム』で計画されたことか?ちゃんと家族と確認し上司の決裁を受けないとダメだろう、と。いったいどこまで計画書に書かないといけないんでしょうか」・・・そんな内容でした。

現場ではよくあるジレンマです。

個別プログラムとは、これまで施設でありがちな集団処遇的な支援スタイルではなく、利用者一人ひとりに対し「その人にあった適切な支援プログラム(=だから個別プログラム)を、チームで計画的に提供する」という支援の形態です。

必然的に、個々のプログラムを組織的に展開することが求められるようになります。そのため、現場職員が好き勝手にプログラムを進められては困ると運営管理者は思う一方、上司は何でもかんでも管理しようとして融通が利かないと現場は捉えてしまう。両者の溝が大きくなると、それこそ、組織的なプログラムの展開はおぼつかなくなります。

さて、その話を聞きながら、私は、次のようなより本質的な疑問を持ちました。

そもそも個別プログラムだけが利用者支援のすべてでしょうか?そのもっと手前のところで、一人ひとりの毎日の暮らしがベースにあるのではないか?と。

施設利用者が自分の部屋の掃除をしたり洗濯物を干す、ちょっとした時間を使って余暇を楽しむ、たまには新しい仕事に挑戦してみる・・・そういうことすら毎日の暮らしの中で実現できないような、過度に単調で窮屈で受動的な生活を送っているとしたら、私たちはまずそのことの異様さに気づくべきではないか、と思うのです。

施設の暮らしであっても、それは利用者本人のためにあるもの。

支援費制度になってますます現場では、家族・本人と契約した個別プログラムだけをやればいい、それが施設の最優先業務だという風潮になっていないかと心配します。いや、個別プログラムというやり方が有効であっても、それもまた利用者一人ひとりにとって一番大事なことに焦点をあて実施されているかをチェックすべきでしょう。

利用者の暮らしはどこかに忘れ去られ、職員の勝手や施設の都合だけでプログラムが提供されている(あるいは、提供されないでいる)としたら、集団でも個別でもそれは大差ないように思います。

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