特定非営利活動法人自閉症eサービス

eコラム

注意書き
 
先日、利用者がいない時間に、とある施設の作業場を見せていただく機会がありました。何人かの自閉症の人がここで作業をしているそうです。現場スタッフはそれなりに自閉症の人たちには個別化と視覚支援が有効だと認識しているようで、個々に作業エリアを設け、スケジュールを用意したり作業の手続き(=ワークシステム)を整理して本人に提供しているとのことです。

ところで気になったのは、作業場のいたるところに「注意書き」が貼ってあるのですね。こんな具合です(多少脚色してありますが、ニュアンスは同じです)。

作業中は静かにする! 口をとじる!
仕事ができたら、「できました」と言う!
(ここから先は)入らない!

といったことが、本人の机の上やドアの前や壁とかにベタベタ貼ってあるのです。

一般に「注意書き」は、文字や絵でわかりやすくして、自閉症の人に注意を促すために用いられます。口頭で注意をされてもそれは抽象的だし消えてなくなるので、覚えていられないことがよくあるでしょう。しかし、視覚的な「注意書き」が掲示されていれば、いつもそこを見れば確認できますからずっと効果的だし、セルフチェックの機会にもなります。スタッフも、その「注意書き」に沿って注意すれば、ずっと根拠のある妥当な対応ができます。つまり、スタッフの恣意的で理不尽な介入や叱責を避ける意味でも、「注意書き」は有効です。

が、だからと言って、「注意書き」を作業場中にベタベタ貼り出すスタッフの感性というのはどんなもんでしょう? 多分、こんな感じなのでしょうか。

①自閉症の人がうるさくてしょうがない、スタッフの注意を守らなくて困っている。
 ちゃんとスタッフの言うことを聞いてほしい。
②「注意書き」は視覚支援だから、なるべく多くあるほうが本人にもいいんだ。
 ないよりあるほうがましだ。

私は、見学させていただきながら、こんな感想を持ちました。

①ああ、自閉症の人は落ち着いて過ごせない作業場で過ごしているのかも・・・。
②ああ、スタッフはそれを見直すことよりも、「注意書き」をあちこちに貼りだしてやり過ごそうとしているのかも・・・。

 「注意書き」を必要最低限のもので済ませておくのが、自閉症の人にもスタッフにとっても健全な職場だと思うのですが、皆さんはどうお考えでしょうか。
自己選択・自己決定
 
「自己選択」や「自己決定」ということで、利用者に決めてもらう、利用者の言い分を最大限受け入れよう。そういう考え方で、現場の支援が進められていることがあります。利用者の意思や人権や生活を尊重することは、現場支援の大前提であり、異論はありません。
しかし実際場面では、どういう状況になっているでしょう。

例えば、施設のレクリエーション。どこに行きたいですか?何をしたいですか?と、利用者に尋ねて、用意された5つぐらいのメニューから選んでもらうと。それは、「レストランで食事」「ドライブ」「ビデオ鑑賞」「カラオケ」「プール」だとしましょう。さて、ここでいくつかの疑問です。

その1:この5つは誰が選んだのか?
その2:この5つ以外の活動を利用者が希望したらどうするのか?
その3:メンバーや具体的な内容や行き場所や時間帯はどうやって計画をたてるのか?

おそらく、実情はこうでしょう。

その1:選択肢は施設のほうで選びました。
その2:他の選択肢はありません。何も選ばないと「参加せず」になります。
その3:施設職員のほうで細かな計画は立てます。

つまり、利用者の「自己選択」や「自己決定」と言っても、施設の中では「ある程度、可能な範囲で・・・」という条件がついているのです。考えても見てください。施設での、居室場所、作業活動や日課、班分け、担当職員、年間行事、給食、外出や通信の自由・・・これらもろもろの選択や決定のほとんどは施設(職員)側が主導している現実を。

ある地域の話です。家で不適切な行動があるからと、いくつかのショートステイを転々とされている自閉症の青年がいました。彼は、もはや、「ショートステイに行きたくない!」と明言し、それでも無理やり施設に連れて行かれると、1日、2日で逃げ出すことを繰り返しています。彼は明らかにショートステイは嫌だと“自己主張している”のに・・・。

この本人不在のメカニズムに目をつぶって、「自己選択」「自己決定」を施設(職員)が無自覚にアピールすることは、二重の意味で失礼な話です。1つは本質的な問題(=本人不在のメカニズム)に自ら加担していること、もう1つはそれを隠して、利用者に寄り添うような素振りを見せること、です。

施設職員は「その利用者さんが選んだ(選べた)」と喜ぶだけでなく、豊かな暮らしとはどういうものかを本気で追求してほしいと思います。「この給食まずい、食べたくない!」と本人が自己決定して断食に入ったら、あなたはどうしますか?

個別プログラムと毎日の暮らし
 
先日、ある若手の施設職員と話をしていたら、こういう嘆きを聞きました。

「車の好きな利用者をさそって昼休みに施設の車を洗っていたら、上司から注意されたんです。それは『個別プログラム』で計画されたことか?ちゃんと家族と確認し上司の決裁を受けないとダメだろう、と。いったいどこまで計画書に書かないといけないんでしょうか」・・・そんな内容でした。

現場ではよくあるジレンマです。

個別プログラムとは、これまで施設でありがちな集団処遇的な支援スタイルではなく、利用者一人ひとりに対し「その人にあった適切な支援プログラム(=だから個別プログラム)を、チームで計画的に提供する」という支援の形態です。

必然的に、個々のプログラムを組織的に展開することが求められるようになります。そのため、現場職員が好き勝手にプログラムを進められては困ると運営管理者は思う一方、上司は何でもかんでも管理しようとして融通が利かないと現場は捉えてしまう。両者の溝が大きくなると、それこそ、組織的なプログラムの展開はおぼつかなくなります。

さて、その話を聞きながら、私は、次のようなより本質的な疑問を持ちました。

そもそも個別プログラムだけが利用者支援のすべてでしょうか?そのもっと手前のところで、一人ひとりの毎日の暮らしがベースにあるのではないか?と。

施設利用者が自分の部屋の掃除をしたり洗濯物を干す、ちょっとした時間を使って余暇を楽しむ、たまには新しい仕事に挑戦してみる・・・そういうことすら毎日の暮らしの中で実現できないような、過度に単調で窮屈で受動的な生活を送っているとしたら、私たちはまずそのことの異様さに気づくべきではないか、と思うのです。

施設の暮らしであっても、それは利用者本人のためにあるもの。

支援費制度になってますます現場では、家族・本人と契約した個別プログラムだけをやればいい、それが施設の最優先業務だという風潮になっていないかと心配します。いや、個別プログラムというやり方が有効であっても、それもまた利用者一人ひとりにとって一番大事なことに焦点をあて実施されているかをチェックすべきでしょう。

利用者の暮らしはどこかに忘れ去られ、職員の勝手や施設の都合だけでプログラムが提供されている(あるいは、提供されないでいる)としたら、集団でも個別でもそれは大差ないように思います。

盗食
 
古くからある福祉施設では、「盗食(とうしょく)」という用語を使っているところがあります。もちろん、最近できた施設でも使っているところは使っていますが。

「盗食」とは「利用者が他人の食べ物を盗んで食べること」を指す施設業界用語です。

たとえば、こんなふうに使われます。給食の時間、ご飯やおかずがトレーに置かれて食堂のテーブルに並べていたとしましょう。そこに、ある利用者がやってきて、自分の席に座るやいなや、他人のおかずをサッと取って食べてしまったとき、職員はその光景を見て「あ、盗食した!」と言って叱ったりするのです。そして、その利用者が何度も「盗食」を繰り返すと、言うことの聞かない困った人・問題行動を起こす人、となっていきます(前回参照)。

職員の言動から察すると、その職員は次のような捉え方をしているのでしょう。
認識① 黙って他人のものを食べた(マナーの悪い人だ、卑しい人だ)
認識② 見つからないようにこっそりと他人のものを取った(悪意のある人だ)
認識③ 盗食をよくする人だ(職員の言うことを聞かない困った人だ)

しかし、少なくとも重度の知的障害で自閉症のある利用者に、「盗食」という言い方はナンセンスです。

疑問① その方は、自分の物と他人の物との区別を理解できているのでしょうか?
疑問② その方は、今ここで何をするべきか、きちんと伝えられているでしょうか?
疑問③ その方は、「○○をください」「食べていいですか?」という機能的な表現手段を持っているのでしょうか?
疑問④ その方は、そもそも、「盗む」という概念理解ができているのでしょうか?

そういう疑問に、くだんの職員は気づいていないか、深く考察してはいないようです。

「他人のおかずを食べた」という事実を、「盗んで食べた」と解釈を飛躍させ、「盗食をする人」という人物評価へと固着させていく構図。

「盗食」の語感からは、「もしかしたら、給食の設定や本人への使え方に問題があるのでは」と職員側の対応を省みる姿勢は全くありません。ただひたすら、「そういうことをする利用者が悪い」と突き放す立場であることを表明しています。そういえば、そういう施設に行くと「無外(むがい)」とか「他害(たがい)」とかもよく使われています。そして、職員は「先生」と呼ばれていたりもします。

「問題行動」
 
自閉症の人が、ときに、自傷したり物を壊す、人を叩く、かんしゃくを起こすことがあります。服破きや唾吐き、水遊びが止まらない、作業をしない、他人のおやつをとってしまう、急に走り出す、職員に質問ばかりしてくるということもある。そういう行動がおさまらないと、現場はそれを「問題行動」と呼びます。スタッフから「困ったことをする」と言われ、そういう行動を起こす自閉症の人に対する非難が集まります。そして、集団の輪を乱す、他人に迷惑をかける、職員の言うことを聞かない、となっていく。

そんなこんなで、現場では、自閉症の人の問題行動を何とか止めさせたいという相談や悩みであふれかえることになります。曰く、「○○さんは職員の目を盗んでトイレに物を詰めて困っている」「△△くんは勉強が嫌いで、立ち歩いてばかりいます」「叱ると、すぐにパニックになってしまいます」「いくら言っても言うことを聞いてくれません」「注意すると『ちゃんとやります』て言うのに、また同じことをやります」。すっかり、自閉症の○○さんや△△くんは問題行動を起こす人とレッテルが貼られていきます。
さて、ここで素朴な疑問です。問題行動とは、自閉症の人の問題なのでしょうか?
私は、次のような質問を現場によくします。「その人が落ち着いて活動しているときはどういうときですか? なぜ、今回はそういう行動になったと思いますか? 叱ったり言い聞かせてもおさまらないなら、別の方法を考えるべきではないでしょうか?」と。
問題行動を起こさず、穏やかに暮らしている自閉症の人たちはたくさんいます。自立して仕事をこなし、自信をもって地域で活動に参加する方々がいる。何で、自閉症の人たちの中で、そんなに違ってしまうのでしょうか?

問題行動ばかりにとらわれているスタッフや現場に共通の傾向は、「自分たちは正しい。ちゃんとできない自閉症の人たちが問題なのだ」という頑な態度です。
「パニックや自傷をしている自閉症の人たちは一体どういう思いなのだろう?」「当の自閉症の人たちこそ、今何をしていいかわからず困っているのではないだろうか?」、そういう相手の立場にたって考える視点や想像力が足りません。
自閉症はコミュニケーションに大きな障害があります。そういう障害を持っている人に、叱ったり言い聞かせる方法を続ける鈍感さ。感覚の刺激に苦痛を感じたり混乱しているかも知れないのに、騒がしい環境にいさせたり材料を片付けない無神経さ。
問題行動だけを取り出して、自閉症の人を非難するだけでは何も解決はしません。問題行動を減らす努力は現場にこそ求められています。なぜ、あなたの現場では問題行動がこんなに多いのでしょうか?あなたの現場にこそ、何か問題が潜んでいるのではないでしょうか????

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