特定非営利活動法人自閉症eサービス

eコラム

乗り越えが大事か?
 
読者の皆さんの中には、近視や老眼でめがねやコンタクトレンズを使っている人も多いでしょう。視力が0.1なら、裸眼で生活することはかなり不便だし、危険でもあります。車を運転することはできないし、仕事もままならない。かく言う私もその一人です。

そんな私に、「めがねを使わずに、よく見てみろ」と周囲から求められたら、どうしましょう? しかし、一生懸命目を凝らして見ようとしても、遠くの看板の文字が読めない私に、「何でこれぐらいできないの!」と、ちゃんと見ることのできない私が悪いかのように扱われたら、どうでしょう?

自閉症の人たちは、<社会性の障害><コミュニケーションの障害><こだわりなどの特異的な行動をする>といった障害特性があることは、国際的な診断基準がそうであるように、よく知られた事実です。しかし自閉症の人が、例えば、言語指示をうまく理解できなかったり集団行動になじめずにいたりすると、「わざとやってる」「言うことを聞かない」「さぼってる」となじる人があとを絶ちません。
中には、「頑張って、そこから乗り越えることが大事だ」と決め付け、わざと言葉かけを繰り返す保母さんや、運動会や学芸会の集団での出し物にうまく参加できない自閉症の子どもを叱りつけている学校の先生がいます。

この構図は、自己矛盾というか自己欺瞞です。自閉症はコミュニケーションに障害があると認めているにも関わらず、あえて言葉かけをおこなって、うまくいかない自閉症の人を責めるわけですから。めがねを使っているその保母さんや先生に対しても、「目が悪いのですね。それじゃ、めがねを使わずに仕事をしてください。乗り越えることが大事です」と言わなければなりません。

一体、どうしてこういう自明の理を無視した自己欺瞞が横行するのでしょうか。一言で言えば、自閉症という障害を軽く見ている。大したことはない、個人的な努力や頑張りで乗り越えられずはずだ、と思っているのです。これが大きな間違いの元です。

国は発達障害者支援法や特別支援教育制度へと大きく踏み出し、自閉症をはじめ発達障害を持つ人が、個人的な努力や頑張りではいかんともしがたいぐらい大変な困難を抱えることを認め、公的な支援を展開しようとしています。しかし、どういうわけか、現場の支援者や教育者の中には、傷口に塩を塗るように「障害を乗り越えさせよう」とする人たちがいます。

その人が持っている障害の大変さをきちんと認める。その上で適切な支援や配慮をおこない、その人らしい暮らしを送りながら社会参加できるように、私たちは関わっていきたい。乗り越えるべきは、私たちの意識であり、私たちの行動のほうではないでしょうか。
「自立」の意味
 
最近「自立」にまつわって、こんな話を聞きました。

  • 学校の先生はよく「子どもが自立して動けて・・・」と言うのですが、どうも先生が手を抜くために、子どもが一人で過ごしてほしいようなんです。それって「自立」なんでしょうか?(養護学校に子どもを通わせている母親より)
  • 集団が苦手な利用者にスタッフがマンツーマンでずっと個別対応しています。個別対応のときは落ち着いて行動できていますが、現場では、その人を集団の中に入れて過ごしてもらったほうがいいという意見もあって、まとまりません(入所施設の職員より)
  • 障害者自立支援法と言っても、結局財源がないから支援を薄くして、自立を強要しているように思える。いろんなサービスがあり、さらに利用者から1割負担も求めているが、そういうサービスがあれば障害者は地域で自立した生活が送れるのかというと、全然そんなことにはなっていない(地域生活支援センターで働くスタッフより)

いろんなレベルで「自立」が語られていますが、私にはどれも同じ根から派生しているように思います。つまり、ここで語られている「自立」の意味は、「周囲からの支援の度合いや周囲との関係を減らすこと」とセットになっているようです。 しかし、単に一人で行動しているとか、一人で過ごせているから、それで良しとしてはいけないでしょう。極端に言えば、居室に鍵をかけて24時間そこでトラブルなく寝食していたら、それが「自立」だとなるのでしょうか? という問いに行き着きます。ということで、私はいつも「自立と参加」をセットで語るようにしています。自立して、社会(集団)に参加していくのだと。先の3つのエピソードを私なりに整理すれば、次のようになります。

  • 「先生の手を抜くことが目的?」「本人が自立していくことで、これまで先生に依存していた部分の手が抜けるのでは」「ある特定の場面でその子が自立して動けているなら、さらなる自立と社会参加のために、先生にはさらなる教育と支援の展開を望む」
  • 「個別か集団かの問いではなく、その人にとってどういう暮らしがいいかを考えてほしい。一日中、職員がそばについて過ごすのもおかしいし、安易に集団の中に入れて混乱したりパニックになるのを見過ごすのもおかしい。今自立して過ごせている部分をどう広げて、集団の中でも安定して参加できるかを考え、実践すべき」

絵カード
 
ここ数年、自閉症支援の現場ではPECS(Picture Exchange Communication System)が急速に普及しています。PECSについてはまたの機会に検討するとして、ここではPECSに代表される「絵(写真も含め)カード」による支援について考えたいと思います。

方や「絵カードを使って自閉症の子どもをロボットのように動かしている」という批判があり、その一方で「自閉症の子どもには是非絵カードを使うべきです」と主張する人もいます。絵カードはそういう意味で、支援者には刺激的な存在です。

果たして、絵カードは良いのか悪いのか?
私がいつも疑問に思うのは、絵カードが良いか悪いか、そんなに単純に決めていいのかということです。それは例えば、言葉かけは良いか悪いか、偏食指導は良いか悪いか、スキンシップは良いか悪いかなどと、現場スタッフが安易に聞きたがり適用したがる風潮と似ています。実際、こういう話をよく見聞きします。

  • 言葉かけは良い、ということで→子どもが小さいころ、「たくさん言葉かけをしてあげてください」と保健婦さんから言われました(ある自閉症の子どもを持つ母親)
  • 偏食指導は悪い、ということで→「給食で、嫌いな物は全部残すように」と学校では指導されていて、どんどん食べなくなっています(養護学校に通う子どもを持つ母親)
  • スキンシップは良い、ということで→教室では子どもの要求に応えていつもおんぶをしてあげています(特殊学級で働く補助教師)

でも本当は、いろんな子どもがいて、いろんな事情があるんじゃないかと私は思うのです。1つのやり方で何でも解決できる、そんな魔法の杖はないと・・・。○○療法が良いですよと一方的に押し付けてくる支援者に出会うと、それだけで私なんかは警戒してしまいます。

さて、絵カードです。確かに視覚的に理解することが強い自閉症の人には、一般に、くどくどと言葉で説明されるより絵や写真のほうがわかりやすいことは圧倒的な事実です。相談場面で、そのように私に教えてくれる当事者もたくさんいらっしゃいます。
が、だから何でも絵カードを作って見せればいい、というものでもありません。こんな例がありました。

  • バスの利用の動作を細かなステップに分けて10数枚の写真カードにして見せながら教えた。本人はその都度写真カードを見るのが忙しくて、バスに乗りこむだけでも大変そう(まさにロボットのような動き!)。
  • 絵カードを見せても本人は何だかよくわからない。絵カードをくしゃくしゃにして遊んでいる。
  • 休憩場所を写真に撮って、次は休憩ですよと示してみた。本人はその写真を見て休憩場所に行くが、いつも同じ絵本を読んでいた。あるとき、休憩場所にその絵本がないと彼は大パニック。写真をよく見ると、その絵本が写真の端に小さく写っていた。彼はそれを見て、「その絵本を読まないといけない」と捉えていたようだ。

絵カードもまた支援の道具に過ぎません。道具を上手に使うことが肝要です。そのためには、絵カードを使っている子どもに問いかけてみることです。「どうですか、使い勝手は?」と。
「自立課題」と「教材グルグル」の大きな違い
 
「教材グルグル」という言い方をご存知でしょうか。ある地域のある施設や学校だけで通用する特殊な用語かもしれませんが、要するに、「自閉症の人向けの教材や作業課題を、作っては崩し、作っては崩しして、何度も使いまわして本人にやらせること」を指します。

例えば、施設の日中場面で、ある自閉症の利用者がボールペンの組立て作業をしているとしましょう。しかし、それは実際の工賃仕事でも何でもない。現場スタッフは、その利用者が作ったボールペンを回収しては作業場の陰で分解しておき、彼が手持ち無沙汰になったり一定の時間がきたら、またその分解したボールペンの材料を彼に渡して、再度「ボールペンの組立てをしてください」と指示する、というサイクルになる。材料がグルグルと利用者とスタッフの間を回るサマから、「教材グルグル」と言われる訳です。

ただ教材がグルグル回っているだけで、何の意味があるのか?いや、それでも意味があるのだと、現場スタッフは言うかもしれません。それはこんな感じです。( )は私の疑問。

  • 適度に日中の時間を過ごすために(→ただの時間つぶしじゃないか?)
  • 本人が好きだから(→ほかの活動や課題は実際に試してみたのか?)
  • 職業スキルや態度を教える(→なら、何年も同じ教材を続けている理由は?)
  • いずれ実際の仕事に結びつける(→その具体的なプランは?)

確かに、教材を使って一定時間課題に取り組むことで、上記のスタッフの言い分のような効果も期待できるでしょう。しかし、同じ利用者に対して何年も同じ教材をグルグル使いまわしているだけなら、それこそ日中のプログラムは何もなく居室でゴロゴロ過ごさせている状況と五十歩百歩じゃないかと私は思います。つまり、ボールペンを崩して渡しておけば、自閉症の人は黙ってまた取り組んでくれるからそれでいいじゃないか、という安直な姿勢にスタッフは陥っていないでしょうか?
まかりまちがっても、それは、TEACCHの言う「自立課題」とは全く違う質のものです。「自立課題」の説明はまたの機会に譲りますが、そのねらいの1つを紹介するだけでも十分でしょう。それは、

「自立課題」に取り組むことで、達成感と自信、自尊心を培う

そういうことは教材を作っては崩す、ただそれだけの日々からは微塵も見えてきません。現場スタッフもまた、同じ境遇の輪の中にいるとしたら、二重に憂うべき状況だと思うのです。

入所施設とグループホーム
 
障害者自立支援法が施行され、いよいよ「施設から地域へ」という流れが本格化すことになります(と思っているけど?)。そこで槍玉に挙げられるのはもっぱら入所施設のほうで、簡単に言えば、施設=ダメ、地域=良いという図式です。じゃあ、ここで言う地域とは何を指しているのか。そこで、期待されている社会資源の1つが、グループホーム(自立支援法では、ケアホームというのも出てきました)です。

つまり、「施設から地域へ」という標語の具体的な中身は、「施設を出てグループホームで暮らす」ということのようです。が、私がこの図式に疑問を持っています。

「施設から地域へ」とは本来、何を意味しているのでしょうか。
私は、障害者は施設入所させればいい(地域から隔離する)という施策や思想に対する反省と、それに替わる「障害者が地域で普通に暮らす社会を」というノーマライゼーションの実現を指しているものと思っています。決して、入所施設そのものがダメなのではありません。入所施設もまた地域の社会資源の1つとして、もっとノーマライズしていけばいいと思うのです。

裏返せば、グループホームなら、普通の地域生活を実現できるか?という疑問もあります。そんなに簡単なことなら、グループホームで暮らす重度知的障害の自閉症の人たちがもっと増えていってもよさそうですが、事態はいっこうに良くなりません。私の見聞きする範囲でも、グループホームや自活訓練事業ではうまく暮らせず、施設に逆戻りしたり、不適応行動が悪化した例もいくつかあります。

グループホームであっても施設であっても、自閉症の人の生活の質を左右するのは、単にその器の問題ではないのではないでしょうか。むしろ、スタッフの支援技術や生活環境の快適さや周到な計画と準備や予算的な裏づけや、何よりも「自閉症の人が普通に暮らすこと」を大事に日々実践されているかどうかにかかっていると私は思っています。

いつもの時間が来たからと、スタッフが機械的に絵カードを見せて「ごはん」だ「お風呂」だと自閉症の人を連れていけば、それが普通の暮らしだと言うのでしょうか。「○○さんは、明日からグループホームで暮らすことになります」と紙に書けば、本人がそれで納得するとでも思っているのでしょうか。
普通の暮らしと言いながらそんなに薄っぺらな中身であるなら、施設もグループホームもどちらも失格です。

私なりに標語を書き改めれば、「施設もグループホームも、他のやり方でも可能性はある」「みんなで連携して、自閉症の人が地域で普通に暮らせる社会を実現しよう」です。

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