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特定非営利活動法人自閉症eサービス

eコラム

流行の技法
 
 最近は自閉症や発達障害関係の書籍がたくさん出ています。特別支援教育への移行と発達障害者支援法の制定が大きな影響を与えています。国が公的に認めたことで、広く普及啓発が進んできました。

 現場レベルでも、自閉症の人たちの支援技術は、日進月歩の感があります。自閉症が知的障害とは違う障害概念であり、自閉症の特性に合った支援や教育が必要だということが当たり前になってきました。プログラムの個別化や視覚支援は、学校現場や福祉施設でも一般的に導入されるようになってきました。

 しかし、相変わらずですが、自閉症支援の世界でも、形に本人を合わせてしまうような本末転倒の事態もよく見受けられます。「その人に合った支援を」が基本のはずなのに、<○○療法>とか<専門家の○○さんがやっているやり方だから>と強引に当てはめる姿勢がなきにしもあらずです。

 例えば、こんな話がありました。

 

 ・ある児童の施設では、全員の子どもに、同じスタイルのコミュニケーションブックを持

  たせ、それでしか職員とやり取りしないようにしている。

 ・紙に書いて説明すればいいということで、職員は何でもかんでも紙に書いて説明する 

  が、本人はピンときていない。

 ・特別支援学校の朝の会で、出席者の写真と名前のボードを手渡すことで、挨拶の練習を 

  している。しかし、明らかに生徒の中には写真も名前も理解できていない人もいるが、

  1年間ずっとそれを繰り返している。

 

 TEACCHがいう構造化に対して、「絵カードを使って、ロボットのように人を動かす」とか「衝立の中に本人を押し込めて、本人とかかわりを持とうとしない」といった批判を受けることがあります。そのこと自体、自閉症理解に基づいた構造化の意味や必要性をよく知らずに、絵カードや衝立といった表面の形を見てしまう誤解です。が、実際問題、現場では「意味のない構造化」「形骸化した○○療法」もまた起こっているのではないでしょうか。

 流行の技法を安易に、あるいは強引に適用しようとする支援者を見ると、次のような心情があるようです。

 

 ・最新の技法を取り入れているという優越感、試してみたいという気持ち

 ・立派な専門家が薦めるのだから多分良いのだろうという無批判な態度

 ・みんながそれをおこなっているからという横並び意識

 ・○○療法をやらねばならないという強迫感、義務感

 

 そういう支援者には、立ち止まってよく考えてほしいと思います。「その人に合った支援を」が基本でしたね。もし今おこなっているやり方がその人に合っていないなら、やり方を見直すべきです。謙虚さと科学的な態度で、多角的に検証すること。いくら理論的に間違いがないとしても、あなたのそのやり方は意味を失っているのかもしれません。私たちは人を支援しているのだ、ということを常に忘れてはならないのです。

スタッフのローテーションと利用者の立場
 
 入所施設やケアホームではスタッフのローテーション勤務が当たり前になっています。24時間、365日、利用者の生活を支援していくためには、一人のスタッフが何十時間も現場に張り付いて支援にあたることはできません。日本の労働基準法では、週40時間の勤務時間が目安ですから、各スタッフが交代勤務をしながら、利用者の毎日の生活をフォローしていくスタイルにならざるを得ないわけです。

 しかし、このローテーションというシステムが、施設やホームで暮らす自閉症の利用者にとって、大きな混乱や不安の原因になってしまいます。自閉症の人の立場から言えば、

①どのスタッフがいつ支援現場(=自分たちの生活の中)に入ってくるか、よくわからない。

②自分たちの生活スタイルとは関係ないタイミングで、スタッフが変わる。

③スタッフの対応やかかわり方が、ころころ変わる。

④どのスタッフが自分の支援プログラムを計画し、実施してくれるのか、よくわからない。

 

 ①について・・・スタッフの配置表や今日の当番が誰か、写真や図表で示してほしい。予定していたスタッフが休みや出張で急に現場に入らなくなったときや、代わりのスタッフが臨時で入るときも、事前にわかるように伝えてほしい。

 ②について・・・朝起きたら朝食をすませ、職場に出かけて昼間は仕事をし、夕方に帰宅して、夕食や入浴をして就寝する、というのが普通の暮らしではないか。そういう自分たちの生活スタイルに合わせて支援スタッフも入ってほしい。スタッフの事情で昼間の活動が何もないとか、午後3時に入浴するとかは止めてほしい。仕事を指導していたスタッフが途中でいなくなり、今度は夜のくつろぎの時間に入ってくると戸惑ってしまう。

 ③について・・・同じことをしていても、対応するスタッフによって、ときには許され、ときには制止させられたりすると混乱する。怒りっぽいスタッフやぞんざいなスタッフ、なれなれしいスタッフなどなど。もう、スタッフの顔色を見て、スタッフの都合に合わせて暮らすのは嫌だ。

 ④について・・・自分の生活について、誰が支援プログラムを考えてくれているのか、よくわからない。スタッフは、ちゃんと支援プログラムに沿って対応してくれているのだろうか? 個人的な思い込みや好き嫌いで対応されているのかもしれないと思うと不安だ。

 

 スタッフの都合だけでローテーションを決める。うちの施設ではずっとこのやり方でやってきたからと漫然と続ける。利用者の立場にたって、ローテーションのやり方を改めてみることもあっていいのではないでしょうか。

乗り越えが大事か?
 
読者の皆さんの中には、近視や老眼でめがねやコンタクトレンズを使っている人も多いでしょう。視力が0.1なら、裸眼で生活することはかなり不便だし、危険でもあります。車を運転することはできないし、仕事もままならない。かく言う私もその一人です。

そんな私に、「めがねを使わずに、よく見てみろ」と周囲から求められたら、どうしましょう? しかし、一生懸命目を凝らして見ようとしても、遠くの看板の文字が読めない私に、「何でこれぐらいできないの!」と、ちゃんと見ることのできない私が悪いかのように扱われたら、どうでしょう?

自閉症の人たちは、<社会性の障害><コミュニケーションの障害><こだわりなどの特異的な行動をする>といった障害特性があることは、国際的な診断基準がそうであるように、よく知られた事実です。しかし自閉症の人が、例えば、言語指示をうまく理解できなかったり集団行動になじめずにいたりすると、「わざとやってる」「言うことを聞かない」「さぼってる」となじる人があとを絶ちません。
中には、「頑張って、そこから乗り越えることが大事だ」と決め付け、わざと言葉かけを繰り返す保母さんや、運動会や学芸会の集団での出し物にうまく参加できない自閉症の子どもを叱りつけている学校の先生がいます。

この構図は、自己矛盾というか自己欺瞞です。自閉症はコミュニケーションに障害があると認めているにも関わらず、あえて言葉かけをおこなって、うまくいかない自閉症の人を責めるわけですから。めがねを使っているその保母さんや先生に対しても、「目が悪いのですね。それじゃ、めがねを使わずに仕事をしてください。乗り越えることが大事です」と言わなければなりません。

一体、どうしてこういう自明の理を無視した自己欺瞞が横行するのでしょうか。一言で言えば、自閉症という障害を軽く見ている。大したことはない、個人的な努力や頑張りで乗り越えられずはずだ、と思っているのです。これが大きな間違いの元です。

国は発達障害者支援法や特別支援教育制度へと大きく踏み出し、自閉症をはじめ発達障害を持つ人が、個人的な努力や頑張りではいかんともしがたいぐらい大変な困難を抱えることを認め、公的な支援を展開しようとしています。しかし、どういうわけか、現場の支援者や教育者の中には、傷口に塩を塗るように「障害を乗り越えさせよう」とする人たちがいます。

その人が持っている障害の大変さをきちんと認める。その上で適切な支援や配慮をおこない、その人らしい暮らしを送りながら社会参加できるように、私たちは関わっていきたい。乗り越えるべきは、私たちの意識であり、私たちの行動のほうではないでしょうか。
「自立」の意味
 
最近「自立」にまつわって、こんな話を聞きました。

  • 学校の先生はよく「子どもが自立して動けて・・・」と言うのですが、どうも先生が手を抜くために、子どもが一人で過ごしてほしいようなんです。それって「自立」なんでしょうか?(養護学校に子どもを通わせている母親より)
  • 集団が苦手な利用者にスタッフがマンツーマンでずっと個別対応しています。個別対応のときは落ち着いて行動できていますが、現場では、その人を集団の中に入れて過ごしてもらったほうがいいという意見もあって、まとまりません(入所施設の職員より)
  • 障害者自立支援法と言っても、結局財源がないから支援を薄くして、自立を強要しているように思える。いろんなサービスがあり、さらに利用者から1割負担も求めているが、そういうサービスがあれば障害者は地域で自立した生活が送れるのかというと、全然そんなことにはなっていない(地域生活支援センターで働くスタッフより)

いろんなレベルで「自立」が語られていますが、私にはどれも同じ根から派生しているように思います。つまり、ここで語られている「自立」の意味は、「周囲からの支援の度合いや周囲との関係を減らすこと」とセットになっているようです。 しかし、単に一人で行動しているとか、一人で過ごせているから、それで良しとしてはいけないでしょう。極端に言えば、居室に鍵をかけて24時間そこでトラブルなく寝食していたら、それが「自立」だとなるのでしょうか? という問いに行き着きます。ということで、私はいつも「自立と参加」をセットで語るようにしています。自立して、社会(集団)に参加していくのだと。先の3つのエピソードを私なりに整理すれば、次のようになります。

  • 「先生の手を抜くことが目的?」「本人が自立していくことで、これまで先生に依存していた部分の手が抜けるのでは」「ある特定の場面でその子が自立して動けているなら、さらなる自立と社会参加のために、先生にはさらなる教育と支援の展開を望む」
  • 「個別か集団かの問いではなく、その人にとってどういう暮らしがいいかを考えてほしい。一日中、職員がそばについて過ごすのもおかしいし、安易に集団の中に入れて混乱したりパニックになるのを見過ごすのもおかしい。今自立して過ごせている部分をどう広げて、集団の中でも安定して参加できるかを考え、実践すべき」

絵カード
 
ここ数年、自閉症支援の現場ではPECS(Picture Exchange Communication System)が急速に普及しています。PECSについてはまたの機会に検討するとして、ここではPECSに代表される「絵(写真も含め)カード」による支援について考えたいと思います。

方や「絵カードを使って自閉症の子どもをロボットのように動かしている」という批判があり、その一方で「自閉症の子どもには是非絵カードを使うべきです」と主張する人もいます。絵カードはそういう意味で、支援者には刺激的な存在です。

果たして、絵カードは良いのか悪いのか?
私がいつも疑問に思うのは、絵カードが良いか悪いか、そんなに単純に決めていいのかということです。それは例えば、言葉かけは良いか悪いか、偏食指導は良いか悪いか、スキンシップは良いか悪いかなどと、現場スタッフが安易に聞きたがり適用したがる風潮と似ています。実際、こういう話をよく見聞きします。

  • 言葉かけは良い、ということで→子どもが小さいころ、「たくさん言葉かけをしてあげてください」と保健婦さんから言われました(ある自閉症の子どもを持つ母親)
  • 偏食指導は悪い、ということで→「給食で、嫌いな物は全部残すように」と学校では指導されていて、どんどん食べなくなっています(養護学校に通う子どもを持つ母親)
  • スキンシップは良い、ということで→教室では子どもの要求に応えていつもおんぶをしてあげています(特殊学級で働く補助教師)

でも本当は、いろんな子どもがいて、いろんな事情があるんじゃないかと私は思うのです。1つのやり方で何でも解決できる、そんな魔法の杖はないと・・・。○○療法が良いですよと一方的に押し付けてくる支援者に出会うと、それだけで私なんかは警戒してしまいます。

さて、絵カードです。確かに視覚的に理解することが強い自閉症の人には、一般に、くどくどと言葉で説明されるより絵や写真のほうがわかりやすいことは圧倒的な事実です。相談場面で、そのように私に教えてくれる当事者もたくさんいらっしゃいます。
が、だから何でも絵カードを作って見せればいい、というものでもありません。こんな例がありました。

  • バスの利用の動作を細かなステップに分けて10数枚の写真カードにして見せながら教えた。本人はその都度写真カードを見るのが忙しくて、バスに乗りこむだけでも大変そう(まさにロボットのような動き!)。
  • 絵カードを見せても本人は何だかよくわからない。絵カードをくしゃくしゃにして遊んでいる。
  • 休憩場所を写真に撮って、次は休憩ですよと示してみた。本人はその写真を見て休憩場所に行くが、いつも同じ絵本を読んでいた。あるとき、休憩場所にその絵本がないと彼は大パニック。写真をよく見ると、その絵本が写真の端に小さく写っていた。彼はそれを見て、「その絵本を読まないといけない」と捉えていたようだ。

絵カードもまた支援の道具に過ぎません。道具を上手に使うことが肝要です。そのためには、絵カードを使っている子どもに問いかけてみることです。「どうですか、使い勝手は?」と。

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